「動物のいない暮らし」ということ、など

 <はじめに、の前に>
長いです。
そのうえ、約9ヶ月に渡ってちょっとずつ書いたり見直したりしているので、あまり整っていません。

 

<はじめに>
私は今、動物のいない暮らしをしています。もう9ヶ月になります。

大人になって動物を飼うようになってから20数年、うちにはいつも動物がいました。ごく当たり前のように。

そして今、日々当たり前すぎたことが当たり前じゃなくなるとはこういうことか、空虚というのか喪失感というのか、そんなことを感じ続けています。

とはいえ、これを書くのは、「私こんなに空虚なの」ということをお伝えしたいわけではなく、同じような状況になるかもしれない人たち(がいるならば)に向かって、こういう気持ちになるんですわ、という体験談のつもり。

その状況というのは、たとえば、「今現在、考えたくはないけれど、そろそろ年単位では一緒にいることが現実的ではなくなってきた、という動物を1匹だけ飼っていて、その子とお別れしたあとも動物をまた飼うだろうな、と思っている」という状況。

そういう方に、「だったらなにもいないという状況を作らないほうが精神衛生上いいですよ」と伝えたい、というおせっかいな投稿です。むろん、責任を持って動物を飼えるなら、というのが前提ですが。

だってやっぱり、動物を失った悲しみや空虚さを埋めてくれるのはほかの動物だったから。
今までも、飼っていた動物が亡くなるということは何度も経験していて、悲しかったり寂しかったり懐かしかったりするんだけれど、今回ほどの虚脱感はなかったと思います。それは、世話をする必要のある動物がほかにもいたから。どれほど、生きている動物の存在が支えとなっていたのかを改めて思い知ることになりました。

(一度に飼うのは1匹と決めているという動物との付き合い方を否定しているわけではありません)

もうひとつ、長々と書いているのは、この事態に自分がどういう気持ちになっていたのかを記しておきたかったということ。それと、こんなうさぎがいたんですよということを、いや、人をこんな気持ちにさせるうさぎがうちにもいたんですよ、ということを書いておきたかったから、かな。

 

<生き切ってくれたし後悔はないんだけど>
2020年夏、うちのうさぎ「うぉるちん」が月に帰りました。
※うさぎを飼っている人たちは、亡くなることを「月に帰る」と言ったりします。

うぉるちんは2008年11月13日にうちにやってきました。動物病院で里親募集をしていた保護うさぎで、年齢不詳。先生によると「推定5歳」ということ。

わが家での12年の暮らしはとりたてて大事件もなく、病気もケガもせず、変わったことといえば2泊の取材があったときにペットホテルに預けたことくらい。うちでは本棚がひとつ倒れて食器棚の扉が開いたくらいの揺れではあった東日本大震災のときも特に問題もなく。飼い主である私との関係性という点では、大人同士の淡々としたつきあいという感じで最初は始まったなという記憶。

そんなこんなで日々は過ぎ、うちに来て2年もたつと「推定7歳」、そして「推定8歳」となるはずなんですが、そのわりには若いよな……と。そこで、来たときの「推定5歳」は違ったんじゃないのかなという結論に勝手に達することに。もっと若かったのではと。

とはいえ、動物病院に暮らしている間に去勢手術を受け(うぉるちんは男子)、麻酔下で口腔内などもチェックしているはずです。そのうえで十分な大人だと判断されたのなら、「その時点で1歳くらいだった」ってこともないのだろうと。若さゆえのイキった感じもなく、落ち着きもあったし。そこで、「(うちに来たときは)きっと2歳くらいだったのだろう」と自己判断するに至った次第。2020年は推定14歳ということ。もし推定5歳がホントだったら2020年には17歳ってことになっちゃう(さすがにそれはない、たぶん)。

そんなうぉるちんが月に帰ったのは8月7日の朝のこと。
初対面から約12年。推定14歳の人生ならぬ兎生を、最後まで全力で生き抜いてくれました。きっと、想像にしかすぎないが、うぉるちんとしても「生き切ったぜ!」という感じだったのではないかと思います。思いますというより、そう感じました。全部出し尽くしたぜ、というか。そして飼い主である私も、あのときああすれば……といった後悔もなく、伝えたいのは「ありがとう」であり「幸せだったね」「幸せだったよ」なのだから、こんなありがたいことはないし、よいお別れができたと思っています。


<約束なんてしなければよかったと思ったり打ち消したり>
でもひとつだけ後悔はあるかもしれません。
以前、うぉるちんと約束したことがありました。
時期はたぶん2013年。東京でのオリンピック開催が決定したあとのこと。当時は推定7歳だったうぉるちんに、「最低でも東京オリンピック、テレビで一緒に見ようね」「だから長生きしようね」と約束をしたんでした。でも2020年なんてうぉるちんは推定14歳になっているわけで、叶うわけないかもしれないけど、目標は高いところに設定してがんばろう、という気持ちだったわけです。

そして幸せなことにうぉるちんと一緒に2020年を迎えられ、しかし世の中コロナ禍で東京オリンピックは延期に。(関係者に対しては申し訳ないですが)もしこのまま中止になったら、うぉるちんは不死身のうさぎだねー、ずっとうちにいられるねー、なんて言ってた。

どうせ約束するなら、思い切って大阪万博(2025年)くらいにしとけばよかった。
だってうぉるちんはもしかしたら本当に約束を守ってくれたのかもしれなくて。

うぉるちんが月に帰った8月7日は、東京オリンピックが予定通りに開催されていたら観戦に行っていたはずの日の翌日、お寺で火葬した8月9日は閉会式の日で。
「ちゃんと約束守ろうとがんばったんだよ」と思ってたのではないかと思うと泣けてくる。まあ、たまたまだということはよくわかっています。


<1ひく1はゼロではなくてマイナスだった>
うぉるちんが高齢になりつつあってからは、「介護に備えて他の動物は飼わないようにしておこう」と考え、飼っていたのは1匹だけだったんです。要介護になったら時間もかかるしね。その「1匹」が亡くなってしまい、動物がいない生活を、約四半世紀ぶりくらいにすることになったわけです。

それは想像していたよりも何倍も--ぴったりくる言葉がなかなか見つからない--寂しい、切ない、やるせない、なんだかそんなような感情が混ざっているなかに、でも楽しかったね、という気持ちも加わっている、取り扱いに困る感情で。

うぉるちんも私も幸せに暮らしてきて、天寿を全うしたのだから、あんまりぐちゃぐちゃメソメソしているとうぉるちんに心配をかけてしまうな! と思い直したり、でもやっぱり寂しいよー、もふりたいよー、また思ったりと。

 

<当たり前が当たり前でなくなっても染み付いた当たり前は消えない>
そして始まった動物のいない暮らしは、あっちこっちに「不在を実感」トラップのある日々でした。というかまだその中にいるので、「です」ですけど。

日々の暮らしの中には、動物の世話をしたり動物にかまうことが当然のように組み込まれていたわけです。

日常生活の中で、なにかの行為をしようとするとき、「さて、○○だから○○をするか!」と意識の浅いところというか、表面のほうで考えてする行為と、当然のことすぎて「○○するか!」なんて思わなくても自動的に、意識の深いところというか、もはや無意識レベルでやろうする行為があるかと思うんですよ。

動物のいない暮らしとは、動物との暮らしのなかには無意識でやろうとしていた行為のなんと多いことかということに気づかされる、気づかされまくるというものでした。そして、「ああ、これはする必要がないのか」と気づくたびに膝から崩れ落ちる気分になり、何回かにいっぺんはほんとうに膝から崩れ落ちてがっくりする。

(まさにこれ→orz)。

動物のいない暮らしになってからすでに9ヶ月となり、だいぶ「動物がいないバージョン」の生活に上書きされつつあるものの、なかなか上書きされないこともあったりはします。

 

<たくさんあった、「名もなき家事」ならぬ「名もなき共に暮らした証拠」>
名もなき世話や名もなき共に暮らした証拠、そして行き場をなくした気持ちを書き留めていたらたくさんありました。

 

**朝食のあと「さて世話の時間だ」と思ってしまう(朝食→世話がルーチンだった)。

**台所で、鍋や皿をどかして、あげる野菜のざるを置く場所を作ろうとしてしまう。(朝の世話のひとつとして、野菜をカットして軽く干すという作業をするので、ざるに野菜を入れていた)

**新聞を片付けるときも、さてこのあとは世話の準備を、と思ってしまう。(新聞を片付けながら世話用の新聞の準備をしていたので)

**通常、夜10時からうぉるちんと遊びながらテレビを見ていたので、「さて今日は10時から(遊びながら)何を見ようか」と思ってしまう。

**お昼が近づくと「あれ、今日まだ世話してなくない?」と思ってしまう。

**午前中に出かける日は、何時に出るには何時に起きて、と予定を立てるが、そのときに世話の時間も入れそうになる。(うぉるちんのペット霊園に行く時間を決めるときすら、一瞬、世話の時間を考えそうになった)

**(亡くなるような予兆などまるでなかったため)亡くなる前日に買ったサラダ菜と三つ葉はあげられずに亡くなってしまった。(悲しい気分で自分で食べた)

**亡くなった次の日に、通販で買ったうさぎ用品が届いた。足腰は弱ってきていたがまだまだ命には関わりないと思っていたのでなんの迷いもなく購入していた。(未使用なのでメルカリで売ろうかと思っているうちに時間がたってしまったので処分しました)

**うさぎ用品を購入したことのあるサイトや、購入や検索履歴に基づいた広告が出てくるいサイトに、買っていたうさぎ用品が出てきて辛い。

**新聞のたまり具合がすごい。これまでは本紙は世話でほぼすべて使っていたので折込チラシくらいしか残らなかったんだけど。

**うぉるちんのケージがあった部屋のごみ箱の中身を捨てるタイミングがわからない。いままでは朝の世話のときに一緒にまとめていた。(今は新しいごみ捨てルーチンができた)

**エアコンが必要な時期は、出かけるからといってエアコンを消したりしていなかった。むしろ、出かける時点ではエアコン稼働していなくても、「昼間は暑くなりそう」と冷房を入れてから外出したりしていたのに。外出前にエアコンをオフにする違和感。「ホントに消していいんだっけ」と自問自答する。

**冷蔵庫の野菜室に入っている野菜のほとんどはうぉるちん用だったのに、たくさん残ったままだった。自分で食べたけど。

**らでぃっしゅぼーやで買っている野菜のセットの中に、以前ならうぉるちんにあげてたものが入っていると(葉物野菜はほとんどそうなんだけど)、切なくなる。「春菊って人間が食べるときはどうやって食べたらいいんだっけ?」という困惑もある。

**しばらくケージにお骨を置いていた。でもふとケージのほうを見るときに、生きていて暮らしているうぉるちんの姿を追ってしまう。探してしまうというか。

**作業の切れ目などに、ちょっとうぉるちんかまおうかなと思ってしまう。

**ごみの日には、動物用のごみをまとめる場所(ごみ袋)を用意していたが、それを用意をする必要がなくなった。しばらくの間は、「用意する必要はないんだよ」と思わないと、手が自動的に用意しそうになる。

**夜は、仕事終了→うぉるちんと遊ぶ時間→お風呂、というルーチンだったのが、ひとつ抜けてしまい、なにかを忘れているような変な感じがする。

**「今は元気だけど介護のことも考えてないとなあ」と思いながら検索していたグッズが、通販サイトの「おすすめ」に出てきて、なんともいえない気持ちになる。

**あまりにも「あーうぉるちんをもふりたいよ」と思っていたせいか、うぉるちんの毛玉だけが夢に出てきたことがあった。

**ケージのある部屋からカサッと音がしたのを耳にしたとき、けっこう本気で「うぉるちんかな?」と思ってしまう。それはものが落ちた音だったんだけど、ケージのほうから牧草をポリポリする音が聞こえたり、いびきが聞こえたことはあった。聞こえた「気がする」なんだろうけど、聞こえたんだよなあ…。

**うちは室内にクモ(小さいやつね。ハエトリグモ)がいてもそのままにしているんだけど、あるときいつも見るのとちょっと様子が違うのがいたので、「うぉるちん、クモに転生したのか」などと思ってしまう。

**スマホ画面のうぉるちんの画像を見ては「あーうぉるちんとちゅーしたいよー」と思ってしまう。

**仕事をしていて、「うーん、ここはどう書くかな」と悩んだときには「うぉるちんはどう思う?」「そうだよね!」と一方的なやりとりをしていたのに、それができなくなってしまった。

**などなど。


<動物を飼うことは生活することそのものだった>

こんなふうに、いるのが当たり前だった存在が(うぉるちんに限らず家庭内にいる動物という存在が)いなくなるということは、とても大きな空洞、というよりもたくさんの小さな隙間かな、をもたらすことでした。動物を飼うということは生活することそのものだったんだと思い知りました。

これを書いている時点ではすでに9ヶ月が経っているものの、仕事が一段落したときなんかに、無意識に「ちょっとうぉるちん構ってくるか」と思っていることに気がついて愕然とします。(重篤なペットロスとかではないので大丈夫です。染み付いた習慣が抜けきらないだけ)

 

<動物と暮らした人は二度と「動物を飼っていない」世界には戻れない>

客観的に見れば、いた動物がいなくなったということは、「動物を飼っていない」状態になっただけのことで、動物を飼ったことのない人が「動物を飼っていない」ことと同じわけです。

でも、違うんですよ。
一度でも動物と暮らしたことがある人は、動物を飼っていない状態になったとしても、「過去に動物を飼っていた」にはなれても「動物を飼ったことがない」には戻れない。

これを書いている現在(2021年5月)、うちには動物はいません。動物の仕事をしているのにいかがなものか、とは思うし、そのうちきっとまた誰かがうちに来てくれるだろうと思ってはいます。ただ、これからも動物に関わる仕事をしていくのならば(そのつもりですが)、「動物がいないということ」「飼っていない暮らし」を見つめるのも意味があるんだろうと思います。いや、思ってました。でもそれは無理なんです。

だって「動物と暮らしたことがない」と「動物と暮らしていたが今はいない」とでは全然違うんですよ。そりゃそうなんですけど。

もう、「(動物がいたことを思い出したりすることのない)動物がいない暮らし」には戻れないということ。

それまでお世話をしたり遊んでいたりした時間やタイミングのすべてが、一日の流れの中でひっかかるトゲになっていて、「○○してた時間だな」と思うたびにチクリと刺さるんだ。時間とともにそのトゲは鈍くなっていくのだろうけど。それもちょっと寂しいことだけど。

 

もしここまで読んでくださった方がいらしたら、長々とおつきあいありがとうございました。

今はこの、当面の動物がいない暮らしのなかで、「どうして人は(というより私は)動物を飼いたいと思うんだろうか?」ということを考えていたりします。その話はまた今度。

 

blogはできるだけ定期的に更新したいと思っています。
書きたいことはたくさんあるので。

 

ではまた。