私はどうして動物を飼うんだろう?

<いないから考えた「なんで飼いたいんだろう?」>

先日の投稿の通り、今、20数年ぶりに動物のいない暮らしをしているところです。
近い将来、ご縁があって誰かうちに来てくれるといいなとは思っているので、たぶん、動物がいない状態というのもそんなに長くはないんだろうとは想像はしています。ご縁に任せることにしているので、わからないですけども。

※先日の投稿

「動物のいない暮らし」ということ、など - どうぶつといろいろの日々



動物がいない暮らしを続け、動物がいない空虚さを感じつつ日々を過ごしているなかで「それにしても私はどうして動物を飼いたいんだろう?」と考えたりしています。

人が動物を飼いたいと思う理由としては、人よりも五感が優れている動物がくつろいでいる様子に安心するからとか、人は群れを作る生き物だからとかいろいろなことが言われていますし、街頭アンケートを取ればきっと「癒やされるから」が1位なんでしょう。

では私の場合は?
もちろん、かわいいから、癒やされるから、というのはあります。
もふりたいとか、かまいたいとか。
そういうのが一番に挙がるんだろうとは思います。
飼いたい対象は主に哺乳類ですし。
これが爬虫両生類だと、かっこいいとか、コレクションという目的もあったりするんでしょうけど。

好奇心というのもある。
大人になってシマリスを飼い始めたところから、すっかり動物方面の人になったわけですが、どうしてシマリスにハマったかというと(今だとシマリス沼っていうんですかね)、生態や習性が面白いな、興味深いな、と感じたから、というのもひとつあります(秋冬になって噛みつかれることも含め)。人とは違うコミュニケーション方法や感覚の違いといったことも面白くて。

そんなふうに、かわいかったり癒やされたり、面白かったりする動物たちだけど、「飼う」となればそれだけじゃすまないわけで。

 

<私はお世話が好きなのか?>

毎日、お世話をしなくてはならない。
当たり前です、生き物ですから。
時間もかかる、それなりにお金もかかる、なんなら手にウンチついたりすることもある。噛みつかれて出血することもある。
そうやって支払った負担に対するリターンは実態のないもので(心にとってはハイリターンだけど)。
それでもお世話をするわけです。

では私は、世話をすることが好きなのか?
たぶん、人の世話をすることは嫌いです。生活を営むうえでの世話は。
結婚していた頃、「なんで自分の時間を使って人の世話をしなきゃいけないんだ」とよく思っていたくらい。
※ここでいう「人の世話」は、「自分で自分の世話ができる人の世話」ということです。

ただ、第三者に対して「なんで自分の時間を…」と思った記憶はないので、身内限定なのかもしれないですが。子どもがいたらどうだったんだろう。想像がつかないけど。

20数年前に動物を飼ってから昨年8月まで、毎日世話をするという暮らしがずーっと続いていたわけです。お世話は私にとって負担だったんだろうか? 正直なところ、「わー、出かけるまでに時間がない!」と慌てて世話することはよくありましたが。

うさぎのうぉるちんがお年寄りになり、さすがに年単位では将来のことが考えられなくなって来た頃に、ひとつ思ったことがあって。「いつかうぉるちんがいなくなったときに、『世話をする時間がなくなった分、時間に余裕ができたな』と思ったりするんだろうか」ということ。そう思っちゃうことは、なんかちょっとイヤだなあと。

それで実際にやってきた、世話をしなくていい毎日。
驚いたことに、私は、心の中だけでさえ、「お世話しない分、時間が増えたな」などと一切、思わなかったんです。亡くなってすぐの頃はもちろん、しばらくしてからも。

私は自分以外の生き物のお世話をすることが好きだったんでしょうか。
結婚していたときには家のことをやるのがとってもイヤだったのに?

もし動物が自分で自分のごはんを用意できるんだったら、きっと私は「自分でやって~」って言うと思う。自分でできないんだからしょうがない。

しょうがない?
でも、しょうがないからやっているのかといえばそうではない。
しょうがないと思ってるんだったらそもそも動物を飼わなければいいわけで。

世話がしたい、したくない、ということではないんだな。

これはおそらく、動物を長い期間にわたって飼っている人たちもそうなんだろうと思う。

世話をするのは「世話をしなきゃ死んじゃうから」ではあっても、死なせないために世話をしているのかといわれたら、そういうこととも違うんじゃないだろうか。

よりよい生を生きてほしいと願っているから、本来ならめんどくさいなと思うはずの世話であっても、めんどうだと思わないんだろうか。
んじゃあ、願いを叶えるために動物を飼っているってことなんだろうか。
世話をしたいから動物を飼うのか。

無限にはない自分の時間(誰にでも一日は24時間だ)や、無限にはない自分のお金(これは個人差がきわめて大きいですが)を削り、神経を削り。

命は命のためにある、というけれど、(世話をする)人の命は(飼っている)動物のためにあるんだろうか。

 

<奇跡への恩返し?>

「鶴の恩返し」のつうが自分の羽毛を抜いては機織りをしたように、自分の時間(など)を削ってでも世話をしたいんだろうか。

恩返し? なんの恩返し? 存在してくれていること、そばにいてくれることに対する恩返し? その動物の本来の生き方ではなく、ペットという立場となって家に来てくれ、世話に応えてくれていることへの恩返し?

そう、存在してくれているのって奇跡だと思う。
日本語も通じない、なにを考え、感じているのかは想像しかできない。そんな動物が、あげたごはんを食べてくれて、生きてくれる。
動物からしてみれば、コミュニケーション手段が異なるなんだかよくわからない生き物の家に連れてこられて、でもこの生き物がくれる食べ物を食べないと生きていけないから食べて。でもそのうち、あれ、一緒にいると安心できるな、ということに気がついて(想像ですが)。

とても愛おしく、毎日毎日起きてくれる奇跡。

世話をするのって、この奇跡を愛おしむということなのかな。神ならぬ身であるのに、他の命を生かしているという奇跡、いや、生きていくことを選んでくれたという奇跡。

奇跡奇跡と奇跡がインフレ起こしてありがたみがなくなりそうだけど、でも、朝、「おはよう」を言えるのは、うん、やっぱり奇跡だ。ありがとう今日もいてくれて。

 

<動物は「飼い主ガチャ」を回すのか?>

飼育下では、生きるも死ぬも飼い主次第だ。飼い主は(たいていの場合)動物を選べるけど、動物は飼い主を選べない。「飼い主ガチャ」みたいだな。全部のカプセルに「当たり」が入っているべき、ギャンブル性のまったくないガチャ。ギャンブル性なんてあってもらっちゃ困るけど。

いやでも、「飼い主ガチャ」を回すというのなら(なぜ回す前提)、動物はどこの家に行こうか自分で選ぼうとしているんだろうか。ありがとううちを選んでくれて。あらここにも奇跡が。

……何の話をしてたんだっけ。

動物を飼いたい、うちに来てほしい、家族になってほしい、と願うのは、かわいい存在がいてくれると嬉しくて癒やされるし、面白くて楽しいし、いてくれると幸せだから、だろうと思う。飼いたいのは自分の心がそう願うからに他ならない。たまたまご縁があって動物がやってくることもあるかもしれないですが。そしてどちらにせよ、そこに命があるから世話をする。

動物を迎えたその日から、自分が生きること・日々を暮らすことと、動物が生きること・日々を暮らしてくれることは同義語になる。これは、動物を飼っている人、飼ったことがある人にはわかってもらえる感覚かもしれないですね。

 

<世話をするのは自分のため?>

結局、飼いたいのも自分のためだし、世話をするのも自分のためなのかもしれない。もちろん、少しでも動物が幸せであってくれるように、よりよい生を生きてくれるようにという思いなのだけれど、それは動物のためでもあるけど自分のためでもあるんだろうな。

これは「自己満足」というものとはちょっと違うようには思います。自己満足という言い方をするならば、動物満足のうえに成り立つ自己満足、かな。「動物満足」しているのかどうかを見きわめるのはとてもむずかしいことだけど。

よく「ペットを飼うのは人間のエゴだ」と言われたりしますが、そういう意味では、エゴなのかもしれないなあ。

 

ではまた。