シマリス画像を募集します

みなさんこんにちは!
動物ライターの大野瑞絵です。

ただいまシマリスの飼育書『シマリス完全飼育』を制作中です。つきましては、シマリス画像を募集したく思っております。以下の詳細をご確認いただき、ぜひともご協力のほど、よろしくお願いいたします。

●書籍について
シマリス完全飼育』
著:大野瑞絵
発刊:誠文堂新光社
発行:2022年4月予定

●ご応募いただきたい画像について
今回募集するのは、皆さまが飼われているシマリスの画像と、リスをモチーフにしたグッズの画像です。

(1)シマリスの画像
テーマは特にありません。ごはんを食べたり遊んでいたり、寝ていたり、という日常の様子、超かわいいところはもちろんのこと、おもしろい姿などもぜひ!

家庭でのシマリスの様子を掲載させていただくことで、読者の皆さまに「シマリスのいる暮らし」を具体的に想像していただくことができると考えています。

画像だけのご応募も歓迎ですが、その画像にまつわるエピソードがあればぜひ教えてください。

(2)リスをモチーフにしたグッズの画像
たとえば、「自分で作ったシマリスあみぐるみ」や「アンティークショップで見つけたリスのブローチ」など、リスをモチーフにしたご自慢のグッズがあれば、ぜひ画像をお送りください。そのグッズにまつわるエピソードもぜひ教えてください。
なお、権利関係で掲載できないものがある場合があることはご了承ください。

●ご応募いただく画像についてのお願い
1.画像データのみ(jpg推奨)。
2.これまでに雑誌や書籍などに掲載されたことのないもの。
3.応募点数に制限はありませんが、皆さまのほうで厳選なさったものをお送りください。
4.複数の画像データを送っていただく場合には、必ず個々に異なるファイル名をお付けください。
スマートフォンからのご応募の場合、複数枚の画像すべてに同じファイル名が付いていることがあるようです。皆さんの大切なお写真の扱いにミスが生じないよう、必ずご確認ください。
5.ピントが合っていないものは掲載できませんのでご了承ください。
6.掲載できるお写真の点数には限りがあるため、すべての皆さまの画像が掲載できない可能性があることをご了承ください。
7.画像上に文字や飾りを載せているもの、合成などの加工がしてあるものは不可とさせていただきます(ファイルサイズ縮小やトリミングなどの加工はOKです)。
8..必要がある場合には画像をトリミングして使用する場合があります。
9.公序良俗、動物福祉に反する画像の応募はお断りいたします。
10.シマリス画像のみの掲載の場合は、どの画像が掲載になったかのご連絡をこちらからはいたしませんので、ご了承ください。ただし、エピソードを掲載する場合と、グッズ画像とエピソード掲載については、掲載内容を確認していただきます。
11.ご応募いただいた画像の著作権は応募者に帰属します。

●ご応募に際してのお願い
ご応募にあたっては、以下の情報をご明記ください。

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飼い主さまのお名前:
お住まいの都道府県:
必ず連絡のとれるメールアドレス:
画像に写っているシマリスの名前、性別、年齢:
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【注】
・飼い主さまのお名前はハンドルネーム可。書籍に掲載してもさしつかえのないお名前をお書きください。
・お住まいの都道府県およびメールアドレスを書籍に掲載することはありません。
・こちらからはPCメールにてご連絡をいたします。スマートフォンからのご応募の場合、PCからのメールが受信不可となっていて連絡がとれないことがありますので、PCからのメールが受信できるメールアドレスをお教えください。
・個人情報は慎重に扱います。今回の書籍制作以外の目的で第三者に提供することはありません。

●送り先
大野瑞絵(risuko@mue.biglobe.ne.jp)までメールにてお送りください。

※画像が複数ある場合は、ファイル転送サービスを使っていただいてもOKです。
※お送りいただいたら1-2日くらいで受領のご連絡をする予定です。「送ったのにメールが来ない」という場合は受け取れていない可能性があるので改めてお送りください。

●締切
2021年11月30日(火)までにお送りください。
心よりお待ちしております!

【告知】
第2回シマリスアンケート(11/21まで)
https://forms.gle/rkizkhGZw13KyL8AA
第3回シマリスアンケート(11/21まで)
https://forms.gle/c48NPo9e2mHSuwK28
も実施中です。よろしければご協力くださいませ

大切なことはすべてシマリスから教わった

ツイッターで告知したように、久々にシマリスの飼育書を発刊することになりました。2015年以来です。どっぷりシマリス漬けになれる日々にワクワクしたり、さまざまなプレッシャーにドキドキしたりしているところです。

発刊となる2022年は、初めてシマリスを飼い始めてからの節目にあたる年でもあります。現在、私にとっては小動物全般が「ホーム」だと思っていますが、なかでもシマリスはホーム中のホーム、スタート地点にして拠り所。シマリスはたくさんのことを私にもたらしてくれました。この記事のタイトルにした「大切なことはすべてシマリスから教わった」というのは、まあよくある言い回しではありますが、シマリスが教えてくれたことや導いてくれた道筋を思い返してみようと思う次第です。

初代シマリス、りすこ、と名付けたシマリスの話です。

彼女が教えてくれたことの一番は、これです。
動物は「生」を諦めない。
どんな動物でもそうなんだと思いますが、たまたまシマリスだったのでシマリスらしい方法でそのことを教えてくれました。
彼女は腫瘍のために約6歳半で亡くなっています。
亡くなる前日、彼女はケージの片隅に、食べ物を隠していました。
ものがうまく食べられなくなり、痩せ、誰がどう見たって死が間近なのに、です。
でも、食べ物を隠しておくということは、彼女は未来を信じていたのでしょう。自分はもう貯食をしておく必要なんてないんだ、とは思わないのでしょう。
動物はいつだって生きることを諦めたりしないのだということ。
だから飼い主はそれを全力でサポートするのだということ。
(苦痛を伴う病状のときの安楽死の問題は別の話です)

実はそのときに彼女が隠した食べ物がまだ手元にあります。
今ほどいろいろな情報もなく、とにかくなんでも食べてくれるものを、と思ってあげてみた「たまごボーロ」。
これを見ると、一番大切なことを思い出させてくれます。

りすこは秋冬になると凶暴になり、冬には冬眠するシマリスでした。
慣れていたのに、ある日突然、目を三角にして噛み付いてきたときのことは、今でも忘れません。その頃はそんな情報などどこにもなく、「どうしたんだろう、おかしくなっちゃったんだろうか」と思ったこと。凶暴になっているときはケージから出さなきゃいいのに、部屋に放しては攻撃されるあの恐怖(笑)。こればっかりは経験してみないとわからないかもしれませんね。あんなにちっちゃい体なのに猛獣よりも恐ろしい。

冬眠していることに気づいたときの驚きも覚えています。帰宅すれば巣箱から出てくるのに、出てこない。あれ? と思って巣箱の中を見てみると寝ている……ん? 息してる? 触ると体はひんやり冷たくて、「死んじゃったの!?」と思ったときの心臓がキューッとする感じ。落ち着け、落ち着け、と言い聞かせてよく見ると、時々呼吸をしている。これが冬眠か、と理解できたときの安心感。
(飼ってきたシマリスのなかには冬眠するのもしないのもいましたが、うちは、冬眠する個体は冬眠したいままさせる派です)

シマリスには秋冬になると気が荒くなる個体がいることや、その時期と冬眠する時期がどうやらリンクしているのだということを雑誌や書籍で確信をもってお伝えできたのは、体験させてくれたことが大きかったなと思います。

もともとは夫(当時)が「飼いたい」と言い出して飼うことになったシマリスだったのですが、パソコン通信シマリスの情報収集をしたり、「飼育書がないならみんなで作ろう!」とパソコン通信上で飼育書を作ったり、なんだかんだしているうちに、ふたりで飼っていたシマリスは、私ひとりの行く手を照らす存在となっていったわけです。手のひらに乗るような小さい動物に人生を左右されているこの感じ、嫌いじゃありません。

時代がパソコン通信からインターネットに変わってからは、ホームページの掲示板を通じてリス友達もできました。何年か経ってだれもリスの現役飼い主でなくなってからも交流が続いているのも、シマリスが連れてきてくれた嬉しいご縁だなと思います。管理状態のよくなかった某リス園に改善を要望したりなんかもしたものです。

りすこ以外のシマリスはどの子たちもみんな、よそのおうちから来てくれた子たちで、これもまたご縁。シマリスの縞は人々をつなぐリボンなんだね、なんて思ってみたり。

ペットとしてはけっこう前から飼われていてポピュラーな存在なのに、野生っぽさがなくならないし、ある意味、人に媚びない。シマリスは、やっぱ面白いやつだな! と改めて感じています。

飼育書作成にあたっては、多くの皆さんにご協力を仰ぐことになると思います。
たくさんのシマリス愛を縞々リボンでぎゅっと結んで形にできればいいな、と思っています。またそのさいには、どうぞよろしくお願いします。

ではまた。

 

*感謝*2021夏至記念【げっ歯目総選挙】*御礼*

今年もげっ歯目総選挙にご参加いただき、ありがとうございました。

結果はこのようになりました。

2021夏至記念【げっ歯目総選挙】あなたの推し齧は?

モルモットを愛する皆さんおめでとうございます!!

 

投票数の多い順に並べたものはこちらになります
2021夏至記念【げっ歯目総選挙】投票結果(得票数順)


皆さんの愛するげっしーたちのかわいい画像をたくさん拝見することができて、たまらなく幸せなこの1週間でした。パソコン画面(あるいはスマホ画面)から愛情が溢れ出ちゃってましたね。

「うちの子が一番だけど、あのげっしーもかわいいな…」と浮気心がうずいた方もおられるのでは。その浮気ならオッケーです(笑)

小道具を作ったり、連日画像を載せるなど、皆さんの楽しんでおられる様子に、やってよかった、としみじみ嬉しく思いました。応援のお声も本当にありがとうございます。

また、「○○という種を初めて知った」「知らなかったので調べてみた」というツイートも見かけました、げっ歯目総選挙をやった甲斐があるというものです。

今年もご参加、本当にありがとうございました。
皆さんも楽しんでいただけたならこんなに嬉しいことはありません。

ありがとうございました!

この後はあまりおもしろくない話です。

-=-=-=-=-=-

ただ、不正が行われているというツイートも見かけました。投票の動きが異常ではないかということのようでした。

私が参加を呼びかけたイベントで、不快な思い、嫌な思いをした方がいることについては、心から申し訳なく思っています。

ただ、不正それ自体は、私には防ぎようもないことです。不正があったとしたら責められるべきは不正をした人だけだと考えています。

1位になったからといって特に何があるわけでもないというのに、そんなことにスキルと時間を使うなんて、バカバカしいことだなと思います。楽しんでいる人たちに水を差す行為という点では人として最低だなとも思います。昨年のデグー、今年のモルモットは、おそらく不正なぞやらなくても1位になったのではないかと想像されます。つまり不正などしたところで無駄でしたね、ともいえます。

不正があるというツイートを見かけたり、管理不足とお声をいただいたり、その他まあいろいろとメンタルを削られることも少なからずあり、仕事でもないのになぜこんなに削られているんだ私は、と思い、もう今年で終わりだ、と決めようとしていました。

ただ、多くの皆さんが、楽しんでくださったという声をお聞きすると(正直、うるっとしながら読んでいます)、やっぱりやめられないなあ、と思う次第です。

ですので今のところは、皆さんに対して、「また来年!」とお伝えしたいと思います。

げっ歯目を好きな人が参加「しなくてはならない」ものではないので、私にできること、できないことをご理解いただける皆さん、一緒に楽しんでいただける皆さん、来年もよろしくお願いします。

-=-=-=-=-=-

ワクチン接種は始まっているもののまだまだ落ち着かない日々が続く中で、夏至も終わっていよいよ夏本番が近づいています。皆さんと皆さんの愛するげっしーも、体調を崩さないようになさってくださいね。

ありがとうございました!

開幕! 2021夏至記念【げっ歯目総選挙】

【投票終了しました。ご参加ありがとうございました!】

やってきました日本の夏、げっしーの夏、げっ歯目総選挙の夏。
11回めのげっ歯目総選挙の夏でございます。

そのうえ投票開始の6月15日は、一粒万倍日であり天赦日という、とってもお日柄のよろしい日。げっ歯目を愛する皆さんと世界中のげっしーたちにとってもいいスタートの日です♪

世の中まだまだ落ち着かないですけれど、ここはひとつ、げっしー愛にあふれた1週間を楽しみましょう。みなさんのご参加のおかげで、今年もそんな初夏を迎えることができました。

さあ、皆さんの推し齧に熱い一票を!
twitter#げっ歯目総選挙 をつけて皆さんの推し齧への愛をつぶやいてください。
そしてご覧の皆さんに「投票しちゃおっかなー」と思わせちゃってください。

げっ歯目総選挙は、1位になったからエライわけでも、投票数が少なかったからエラくないわけでもありません。いろんなげっ歯目がいて楽しいなあ、みんなかわいいなあ、面白いなあ、と思っていただくのがげっ歯目総選挙の楽しみです。このげっしーはどんな動物なんだろう、とげっ歯目への興味をますます深めていただくことこそ、げっ歯目総選挙の目的です。

【投票要領】

・投票所(下のほうにあります)から好きなげっ歯目をひとつ選んで投票してください。
※選択肢はシャッフルして表示されているので、ご面倒でも探してね! これも楽しいげっ歯目総選挙♪

・投票期間は6月15日(火)から夏至の6月21日(月)いっぱい(23:59かな)までです。
※手動で終わらせるので多少22日にずれこむ可能性も否定できません。
※投票所で投票開始日が6/14になっているのは6/14に作業しているせいです。
・おひとり1日につき1回、投票ができるように設定してあります。

【ご注意】
・これは私、大野瑞絵が勝手にやっておりますことで、投票数が増えたからといって私がなにか美味しい目にあうということは一切ございません。blogに載せているのもアクセス稼ぎの意図はございませんのでご理解くださいませ。
・「○○も選択肢に入れてほしい」というご要望がございましたらご一報ください。次回には反映させられるようがんばります。それがげっ歯目ならば。
ハリネズミはげっ歯目ではなく、うさぎもげっ歯目ではありません。

★6/15補足
・意識調査、リサーチ等の意図をもって行っている投票ではございませんので誤解のなきようお願いいたします。(意図をもったアンケートをとる場合にはきちんと目的や利用方法についてお伝えした上で行います)

【ご一読ください】一度だけは読んでね

・「○○が○位になったら○○」系の企画は、「○○が○位になったら彼女にプロポーズするんだ!」的なきわめてプライベートなものでしたらご自由にどうぞ、なのですが、営利目的っぽいものはあまりよろしくないように思います。一応、営利目的で乗っかるのはNGということにさせてください。

・昨年、FC2だと不正投票ができるというようなコメントもいただきましたが、現時点ではFC2以外に、「だれでも投票できる」「回数制限ができる」「多くの選択肢が可能」「無料」そして「私でも使える」という投票サイトを見つけることができていません。ですので今年もFC2を利用しますのでご理解のうえご参加されるかされないかご判断ください。

・そんな人がいるとは思いたくないですが、不正をたくらんでいる方へ。
あなたの愛するげっしーの目を見てそのことが言えますか?
もし不正をしたりすれば、あなたには人より3倍、タンスの角に小指をぶつけ、紙で手を切り、夏に自動販売機で冷たいジュースを買おうをすると冷えてないのが出てき、冬になると静電気でバチッとなるようなことが増えるかもしれないですよ。つまらないことはやめておきましょう。

ご一読いただいたら、あとは投票所のリンク先をブックマークして利用していただいてもOKです。

vote1.fc2.com

 

では、ご投票お待ちしています♪

 

 

私はどうして動物を飼うんだろう?

<いないから考えた「なんで飼いたいんだろう?」>

先日の投稿の通り、今、20数年ぶりに動物のいない暮らしをしているところです。
近い将来、ご縁があって誰かうちに来てくれるといいなとは思っているので、たぶん、動物がいない状態というのもそんなに長くはないんだろうとは想像はしています。ご縁に任せることにしているので、わからないですけども。

※先日の投稿

「動物のいない暮らし」ということ、など - どうぶつといろいろの日々



動物がいない暮らしを続け、動物がいない空虚さを感じつつ日々を過ごしているなかで「それにしても私はどうして動物を飼いたいんだろう?」と考えたりしています。

人が動物を飼いたいと思う理由としては、人よりも五感が優れている動物がくつろいでいる様子に安心するからとか、人は群れを作る生き物だからとかいろいろなことが言われていますし、街頭アンケートを取ればきっと「癒やされるから」が1位なんでしょう。

では私の場合は?
もちろん、かわいいから、癒やされるから、というのはあります。
もふりたいとか、かまいたいとか。
そういうのが一番に挙がるんだろうとは思います。
飼いたい対象は主に哺乳類ですし。
これが爬虫両生類だと、かっこいいとか、コレクションという目的もあったりするんでしょうけど。

好奇心というのもある。
大人になってシマリスを飼い始めたところから、すっかり動物方面の人になったわけですが、どうしてシマリスにハマったかというと(今だとシマリス沼っていうんですかね)、生態や習性が面白いな、興味深いな、と感じたから、というのもひとつあります(秋冬になって噛みつかれることも含め)。人とは違うコミュニケーション方法や感覚の違いといったことも面白くて。

そんなふうに、かわいかったり癒やされたり、面白かったりする動物たちだけど、「飼う」となればそれだけじゃすまないわけで。

 

<私はお世話が好きなのか?>

毎日、お世話をしなくてはならない。
当たり前です、生き物ですから。
時間もかかる、それなりにお金もかかる、なんなら手にウンチついたりすることもある。噛みつかれて出血することもある。
そうやって支払った負担に対するリターンは実態のないもので(心にとってはハイリターンだけど)。
それでもお世話をするわけです。

では私は、世話をすることが好きなのか?
たぶん、人の世話をすることは嫌いです。生活を営むうえでの世話は。
結婚していた頃、「なんで自分の時間を使って人の世話をしなきゃいけないんだ」とよく思っていたくらい。
※ここでいう「人の世話」は、「自分で自分の世話ができる人の世話」ということです。

ただ、第三者に対して「なんで自分の時間を…」と思った記憶はないので、身内限定なのかもしれないですが。子どもがいたらどうだったんだろう。想像がつかないけど。

20数年前に動物を飼ってから昨年8月まで、毎日世話をするという暮らしがずーっと続いていたわけです。お世話は私にとって負担だったんだろうか? 正直なところ、「わー、出かけるまでに時間がない!」と慌てて世話することはよくありましたが。

うさぎのうぉるちんがお年寄りになり、さすがに年単位では将来のことが考えられなくなって来た頃に、ひとつ思ったことがあって。「いつかうぉるちんがいなくなったときに、『世話をする時間がなくなった分、時間に余裕ができたな』と思ったりするんだろうか」ということ。そう思っちゃうことは、なんかちょっとイヤだなあと。

それで実際にやってきた、世話をしなくていい毎日。
驚いたことに、私は、心の中だけでさえ、「お世話しない分、時間が増えたな」などと一切、思わなかったんです。亡くなってすぐの頃はもちろん、しばらくしてからも。

私は自分以外の生き物のお世話をすることが好きだったんでしょうか。
結婚していたときには家のことをやるのがとってもイヤだったのに?

もし動物が自分で自分のごはんを用意できるんだったら、きっと私は「自分でやって~」って言うと思う。自分でできないんだからしょうがない。

しょうがない?
でも、しょうがないからやっているのかといえばそうではない。
しょうがないと思ってるんだったらそもそも動物を飼わなければいいわけで。

世話がしたい、したくない、ということではないんだな。

これはおそらく、動物を長い期間にわたって飼っている人たちもそうなんだろうと思う。

世話をするのは「世話をしなきゃ死んじゃうから」ではあっても、死なせないために世話をしているのかといわれたら、そういうこととも違うんじゃないだろうか。

よりよい生を生きてほしいと願っているから、本来ならめんどくさいなと思うはずの世話であっても、めんどうだと思わないんだろうか。
んじゃあ、願いを叶えるために動物を飼っているってことなんだろうか。
世話をしたいから動物を飼うのか。

無限にはない自分の時間(誰にでも一日は24時間だ)や、無限にはない自分のお金(これは個人差がきわめて大きいですが)を削り、神経を削り。

命は命のためにある、というけれど、(世話をする)人の命は(飼っている)動物のためにあるんだろうか。

 

<奇跡への恩返し?>

「鶴の恩返し」のつうが自分の羽毛を抜いては機織りをしたように、自分の時間(など)を削ってでも世話をしたいんだろうか。

恩返し? なんの恩返し? 存在してくれていること、そばにいてくれることに対する恩返し? その動物の本来の生き方ではなく、ペットという立場となって家に来てくれ、世話に応えてくれていることへの恩返し?

そう、存在してくれているのって奇跡だと思う。
日本語も通じない、なにを考え、感じているのかは想像しかできない。そんな動物が、あげたごはんを食べてくれて、生きてくれる。
動物からしてみれば、コミュニケーション手段が異なるなんだかよくわからない生き物の家に連れてこられて、でもこの生き物がくれる食べ物を食べないと生きていけないから食べて。でもそのうち、あれ、一緒にいると安心できるな、ということに気がついて(想像ですが)。

とても愛おしく、毎日毎日起きてくれる奇跡。

世話をするのって、この奇跡を愛おしむということなのかな。神ならぬ身であるのに、他の命を生かしているという奇跡、いや、生きていくことを選んでくれたという奇跡。

奇跡奇跡と奇跡がインフレ起こしてありがたみがなくなりそうだけど、でも、朝、「おはよう」を言えるのは、うん、やっぱり奇跡だ。ありがとう今日もいてくれて。

 

<動物は「飼い主ガチャ」を回すのか?>

飼育下では、生きるも死ぬも飼い主次第だ。飼い主は(たいていの場合)動物を選べるけど、動物は飼い主を選べない。「飼い主ガチャ」みたいだな。全部のカプセルに「当たり」が入っているべき、ギャンブル性のまったくないガチャ。ギャンブル性なんてあってもらっちゃ困るけど。

いやでも、「飼い主ガチャ」を回すというのなら(なぜ回す前提)、動物はどこの家に行こうか自分で選ぼうとしているんだろうか。ありがとううちを選んでくれて。あらここにも奇跡が。

……何の話をしてたんだっけ。

動物を飼いたい、うちに来てほしい、家族になってほしい、と願うのは、かわいい存在がいてくれると嬉しくて癒やされるし、面白くて楽しいし、いてくれると幸せだから、だろうと思う。飼いたいのは自分の心がそう願うからに他ならない。たまたまご縁があって動物がやってくることもあるかもしれないですが。そしてどちらにせよ、そこに命があるから世話をする。

動物を迎えたその日から、自分が生きること・日々を暮らすことと、動物が生きること・日々を暮らしてくれることは同義語になる。これは、動物を飼っている人、飼ったことがある人にはわかってもらえる感覚かもしれないですね。

 

<世話をするのは自分のため?>

結局、飼いたいのも自分のためだし、世話をするのも自分のためなのかもしれない。もちろん、少しでも動物が幸せであってくれるように、よりよい生を生きてくれるようにという思いなのだけれど、それは動物のためでもあるけど自分のためでもあるんだろうな。

これは「自己満足」というものとはちょっと違うようには思います。自己満足という言い方をするならば、動物満足のうえに成り立つ自己満足、かな。「動物満足」しているのかどうかを見きわめるのはとてもむずかしいことだけど。

よく「ペットを飼うのは人間のエゴだ」と言われたりしますが、そういう意味では、エゴなのかもしれないなあ。

 

ではまた。

 

2021げっ歯目総選挙のしおり

今年は早くも梅雨入りした地域もあり、まだの地域もなんだかはっきりしない空模様の今日この頃。それでも季節はげっ歯目総選挙を連れてやってきます。
げっ歯目を愛する皆さん、いかがお過ごしですか?

今年で11回目となるげっ歯目総選挙。子どもだったらもう6年生です。ご参加いただく皆さんのおかげです。いつもありがとうございます。

昨年の今頃は、まさか今年になっても世の中がコロナに翻弄されているとは思いもよりませんでした。そんな中ではありますが、いつもどおりのことがいつもどおりにできることこそが幸せなのかもしれません。いつもの初夏をいつもどおりに。いつものげっ歯目総選挙がある初夏を迎えましょう。

夏至までのひととき、わが家のげっしーを自慢するもよし、よそのげっしーに萌えるのもよし、野生のげっしーや街のげっしー、動物園のげっしーに思いを馳せるもよし。みんなでげっしーまみれの初夏を楽しみたいですね!

 

【投票期間】
今年の夏至は6月21日(月)。
その1週間前の 6月15日(火)から6月21日(月)までです。

【投票会場】
6/15になったら当blogにてお知らせします。
今年は残念ながら長めの注意事項を掲載することになるかと思います。
それを一度は読んでいただいてからのご参加をお願いすることになるでしょう。

【応援演説】
皆さんの押し齧への愛、魅力などをぜひともツイッターで、ハッシュタグ #げっ歯目総選挙 をつけてつぶやいてくださいねー! 応援演説はあなたがこれを見たその瞬間からスタートです!

今年も楽しんでね!!


なお、げっ歯目総選挙は大野が個人で細々と運営しておりますので、不手際がございましてもお許しください。できることはできますが、できないことはできません。

【去年の結果】
第1位 デグー
第2位 シマリス
第3位 チンチラ
第4位 モルモット
第5位 ジャンガリアンハムスター
第6位 ニホンヤマネ
第7位 ゴールデンハムスター
第8位 ラット/ファンシーラット
第9位 カピバラ
第10位 スナネズミ

 

「動物のいない暮らし」ということ、など

 <はじめに、の前に>
長いです。
そのうえ、約9ヶ月に渡ってちょっとずつ書いたり見直したりしているので、あまり整っていません。

 

<はじめに>
私は今、動物のいない暮らしをしています。もう9ヶ月になります。

大人になって動物を飼うようになってから20数年、うちにはいつも動物がいました。ごく当たり前のように。

そして今、日々当たり前すぎたことが当たり前じゃなくなるとはこういうことか、空虚というのか喪失感というのか、そんなことを感じ続けています。

とはいえ、これを書くのは、「私こんなに空虚なの」ということをお伝えしたいわけではなく、同じような状況になるかもしれない人たち(がいるならば)に向かって、こういう気持ちになるんですわ、という体験談のつもり。

その状況というのは、たとえば、「今現在、考えたくはないけれど、そろそろ年単位では一緒にいることが現実的ではなくなってきた、という動物を1匹だけ飼っていて、その子とお別れしたあとも動物をまた飼うだろうな、と思っている」という状況。

そういう方に、「だったらなにもいないという状況を作らないほうが精神衛生上いいですよ」と伝えたい、というおせっかいな投稿です。むろん、責任を持って動物を飼えるなら、というのが前提ですが。

だってやっぱり、動物を失った悲しみや空虚さを埋めてくれるのはほかの動物だったから。
今までも、飼っていた動物が亡くなるということは何度も経験していて、悲しかったり寂しかったり懐かしかったりするんだけれど、今回ほどの虚脱感はなかったと思います。それは、世話をする必要のある動物がほかにもいたから。どれほど、生きている動物の存在が支えとなっていたのかを改めて思い知ることになりました。

(一度に飼うのは1匹と決めているという動物との付き合い方を否定しているわけではありません)

もうひとつ、長々と書いているのは、この事態に自分がどういう気持ちになっていたのかを記しておきたかったということ。それと、こんなうさぎがいたんですよということを、いや、人をこんな気持ちにさせるうさぎがうちにもいたんですよ、ということを書いておきたかったから、かな。

 

<生き切ってくれたし後悔はないんだけど>
2020年夏、うちのうさぎ「うぉるちん」が月に帰りました。
※うさぎを飼っている人たちは、亡くなることを「月に帰る」と言ったりします。

うぉるちんは2008年11月13日にうちにやってきました。動物病院で里親募集をしていた保護うさぎで、年齢不詳。先生によると「推定5歳」ということ。

わが家での12年の暮らしはとりたてて大事件もなく、病気もケガもせず、変わったことといえば2泊の取材があったときにペットホテルに預けたことくらい。うちでは本棚がひとつ倒れて食器棚の扉が開いたくらいの揺れではあった東日本大震災のときも特に問題もなく。飼い主である私との関係性という点では、大人同士の淡々としたつきあいという感じで最初は始まったなという記憶。

そんなこんなで日々は過ぎ、うちに来て2年もたつと「推定7歳」、そして「推定8歳」となるはずなんですが、そのわりには若いよな……と。そこで、来たときの「推定5歳」は違ったんじゃないのかなという結論に勝手に達することに。もっと若かったのではと。

とはいえ、動物病院に暮らしている間に去勢手術を受け(うぉるちんは男子)、麻酔下で口腔内などもチェックしているはずです。そのうえで十分な大人だと判断されたのなら、「その時点で1歳くらいだった」ってこともないのだろうと。若さゆえのイキった感じもなく、落ち着きもあったし。そこで、「(うちに来たときは)きっと2歳くらいだったのだろう」と自己判断するに至った次第。2020年は推定14歳ということ。もし推定5歳がホントだったら2020年には17歳ってことになっちゃう(さすがにそれはない、たぶん)。

そんなうぉるちんが月に帰ったのは8月7日の朝のこと。
初対面から約12年。推定14歳の人生ならぬ兎生を、最後まで全力で生き抜いてくれました。きっと、想像にしかすぎないが、うぉるちんとしても「生き切ったぜ!」という感じだったのではないかと思います。思いますというより、そう感じました。全部出し尽くしたぜ、というか。そして飼い主である私も、あのときああすれば……といった後悔もなく、伝えたいのは「ありがとう」であり「幸せだったね」「幸せだったよ」なのだから、こんなありがたいことはないし、よいお別れができたと思っています。


<約束なんてしなければよかったと思ったり打ち消したり>
でもひとつだけ後悔はあるかもしれません。
以前、うぉるちんと約束したことがありました。
時期はたぶん2013年。東京でのオリンピック開催が決定したあとのこと。当時は推定7歳だったうぉるちんに、「最低でも東京オリンピック、テレビで一緒に見ようね」「だから長生きしようね」と約束をしたんでした。でも2020年なんてうぉるちんは推定14歳になっているわけで、叶うわけないかもしれないけど、目標は高いところに設定してがんばろう、という気持ちだったわけです。

そして幸せなことにうぉるちんと一緒に2020年を迎えられ、しかし世の中コロナ禍で東京オリンピックは延期に。(関係者に対しては申し訳ないですが)もしこのまま中止になったら、うぉるちんは不死身のうさぎだねー、ずっとうちにいられるねー、なんて言ってた。

どうせ約束するなら、思い切って大阪万博(2025年)くらいにしとけばよかった。
だってうぉるちんはもしかしたら本当に約束を守ってくれたのかもしれなくて。

うぉるちんが月に帰った8月7日は、東京オリンピックが予定通りに開催されていたら観戦に行っていたはずの日の翌日、お寺で火葬した8月9日は閉会式の日で。
「ちゃんと約束守ろうとがんばったんだよ」と思ってたのではないかと思うと泣けてくる。まあ、たまたまだということはよくわかっています。


<1ひく1はゼロではなくてマイナスだった>
うぉるちんが高齢になりつつあってからは、「介護に備えて他の動物は飼わないようにしておこう」と考え、飼っていたのは1匹だけだったんです。要介護になったら時間もかかるしね。その「1匹」が亡くなってしまい、動物がいない生活を、約四半世紀ぶりくらいにすることになったわけです。

それは想像していたよりも何倍も--ぴったりくる言葉がなかなか見つからない--寂しい、切ない、やるせない、なんだかそんなような感情が混ざっているなかに、でも楽しかったね、という気持ちも加わっている、取り扱いに困る感情で。

うぉるちんも私も幸せに暮らしてきて、天寿を全うしたのだから、あんまりぐちゃぐちゃメソメソしているとうぉるちんに心配をかけてしまうな! と思い直したり、でもやっぱり寂しいよー、もふりたいよー、また思ったりと。

 

<当たり前が当たり前でなくなっても染み付いた当たり前は消えない>
そして始まった動物のいない暮らしは、あっちこっちに「不在を実感」トラップのある日々でした。というかまだその中にいるので、「です」ですけど。

日々の暮らしの中には、動物の世話をしたり動物にかまうことが当然のように組み込まれていたわけです。

日常生活の中で、なにかの行為をしようとするとき、「さて、○○だから○○をするか!」と意識の浅いところというか、表面のほうで考えてする行為と、当然のことすぎて「○○するか!」なんて思わなくても自動的に、意識の深いところというか、もはや無意識レベルでやろうする行為があるかと思うんですよ。

動物のいない暮らしとは、動物との暮らしのなかには無意識でやろうとしていた行為のなんと多いことかということに気づかされる、気づかされまくるというものでした。そして、「ああ、これはする必要がないのか」と気づくたびに膝から崩れ落ちる気分になり、何回かにいっぺんはほんとうに膝から崩れ落ちてがっくりする。

(まさにこれ→orz)。

動物のいない暮らしになってからすでに9ヶ月となり、だいぶ「動物がいないバージョン」の生活に上書きされつつあるものの、なかなか上書きされないこともあったりはします。

 

<たくさんあった、「名もなき家事」ならぬ「名もなき共に暮らした証拠」>
名もなき世話や名もなき共に暮らした証拠、そして行き場をなくした気持ちを書き留めていたらたくさんありました。

 

**朝食のあと「さて世話の時間だ」と思ってしまう(朝食→世話がルーチンだった)。

**台所で、鍋や皿をどかして、あげる野菜のざるを置く場所を作ろうとしてしまう。(朝の世話のひとつとして、野菜をカットして軽く干すという作業をするので、ざるに野菜を入れていた)

**新聞を片付けるときも、さてこのあとは世話の準備を、と思ってしまう。(新聞を片付けながら世話用の新聞の準備をしていたので)

**通常、夜10時からうぉるちんと遊びながらテレビを見ていたので、「さて今日は10時から(遊びながら)何を見ようか」と思ってしまう。

**お昼が近づくと「あれ、今日まだ世話してなくない?」と思ってしまう。

**午前中に出かける日は、何時に出るには何時に起きて、と予定を立てるが、そのときに世話の時間も入れそうになる。(うぉるちんのペット霊園に行く時間を決めるときすら、一瞬、世話の時間を考えそうになった)

**(亡くなるような予兆などまるでなかったため)亡くなる前日に買ったサラダ菜と三つ葉はあげられずに亡くなってしまった。(悲しい気分で自分で食べた)

**亡くなった次の日に、通販で買ったうさぎ用品が届いた。足腰は弱ってきていたがまだまだ命には関わりないと思っていたのでなんの迷いもなく購入していた。(未使用なのでメルカリで売ろうかと思っているうちに時間がたってしまったので処分しました)

**うさぎ用品を購入したことのあるサイトや、購入や検索履歴に基づいた広告が出てくるいサイトに、買っていたうさぎ用品が出てきて辛い。

**新聞のたまり具合がすごい。これまでは本紙は世話でほぼすべて使っていたので折込チラシくらいしか残らなかったんだけど。

**うぉるちんのケージがあった部屋のごみ箱の中身を捨てるタイミングがわからない。いままでは朝の世話のときに一緒にまとめていた。(今は新しいごみ捨てルーチンができた)

**エアコンが必要な時期は、出かけるからといってエアコンを消したりしていなかった。むしろ、出かける時点ではエアコン稼働していなくても、「昼間は暑くなりそう」と冷房を入れてから外出したりしていたのに。外出前にエアコンをオフにする違和感。「ホントに消していいんだっけ」と自問自答する。

**冷蔵庫の野菜室に入っている野菜のほとんどはうぉるちん用だったのに、たくさん残ったままだった。自分で食べたけど。

**らでぃっしゅぼーやで買っている野菜のセットの中に、以前ならうぉるちんにあげてたものが入っていると(葉物野菜はほとんどそうなんだけど)、切なくなる。「春菊って人間が食べるときはどうやって食べたらいいんだっけ?」という困惑もある。

**しばらくケージにお骨を置いていた。でもふとケージのほうを見るときに、生きていて暮らしているうぉるちんの姿を追ってしまう。探してしまうというか。

**作業の切れ目などに、ちょっとうぉるちんかまおうかなと思ってしまう。

**ごみの日には、動物用のごみをまとめる場所(ごみ袋)を用意していたが、それを用意をする必要がなくなった。しばらくの間は、「用意する必要はないんだよ」と思わないと、手が自動的に用意しそうになる。

**夜は、仕事終了→うぉるちんと遊ぶ時間→お風呂、というルーチンだったのが、ひとつ抜けてしまい、なにかを忘れているような変な感じがする。

**「今は元気だけど介護のことも考えてないとなあ」と思いながら検索していたグッズが、通販サイトの「おすすめ」に出てきて、なんともいえない気持ちになる。

**あまりにも「あーうぉるちんをもふりたいよ」と思っていたせいか、うぉるちんの毛玉だけが夢に出てきたことがあった。

**ケージのある部屋からカサッと音がしたのを耳にしたとき、けっこう本気で「うぉるちんかな?」と思ってしまう。それはものが落ちた音だったんだけど、ケージのほうから牧草をポリポリする音が聞こえたり、いびきが聞こえたことはあった。聞こえた「気がする」なんだろうけど、聞こえたんだよなあ…。

**うちは室内にクモ(小さいやつね。ハエトリグモ)がいてもそのままにしているんだけど、あるときいつも見るのとちょっと様子が違うのがいたので、「うぉるちん、クモに転生したのか」などと思ってしまう。

**スマホ画面のうぉるちんの画像を見ては「あーうぉるちんとちゅーしたいよー」と思ってしまう。

**仕事をしていて、「うーん、ここはどう書くかな」と悩んだときには「うぉるちんはどう思う?」「そうだよね!」と一方的なやりとりをしていたのに、それができなくなってしまった。

**などなど。


<動物を飼うことは生活することそのものだった>

こんなふうに、いるのが当たり前だった存在が(うぉるちんに限らず家庭内にいる動物という存在が)いなくなるということは、とても大きな空洞、というよりもたくさんの小さな隙間かな、をもたらすことでした。動物を飼うということは生活することそのものだったんだと思い知りました。

これを書いている時点ではすでに9ヶ月が経っているものの、仕事が一段落したときなんかに、無意識に「ちょっとうぉるちん構ってくるか」と思っていることに気がついて愕然とします。(重篤なペットロスとかではないので大丈夫です。染み付いた習慣が抜けきらないだけ)

 

<動物と暮らした人は二度と「動物を飼っていない」世界には戻れない>

客観的に見れば、いた動物がいなくなったということは、「動物を飼っていない」状態になっただけのことで、動物を飼ったことのない人が「動物を飼っていない」ことと同じわけです。

でも、違うんですよ。
一度でも動物と暮らしたことがある人は、動物を飼っていない状態になったとしても、「過去に動物を飼っていた」にはなれても「動物を飼ったことがない」には戻れない。

これを書いている現在(2021年5月)、うちには動物はいません。動物の仕事をしているのにいかがなものか、とは思うし、そのうちきっとまた誰かがうちに来てくれるだろうと思ってはいます。ただ、これからも動物に関わる仕事をしていくのならば(そのつもりですが)、「動物がいないということ」「飼っていない暮らし」を見つめるのも意味があるんだろうと思います。いや、思ってました。でもそれは無理なんです。

だって「動物と暮らしたことがない」と「動物と暮らしていたが今はいない」とでは全然違うんですよ。そりゃそうなんですけど。

もう、「(動物がいたことを思い出したりすることのない)動物がいない暮らし」には戻れないということ。

それまでお世話をしたり遊んでいたりした時間やタイミングのすべてが、一日の流れの中でひっかかるトゲになっていて、「○○してた時間だな」と思うたびにチクリと刺さるんだ。時間とともにそのトゲは鈍くなっていくのだろうけど。それもちょっと寂しいことだけど。

 

もしここまで読んでくださった方がいらしたら、長々とおつきあいありがとうございました。

今はこの、当面の動物がいない暮らしのなかで、「どうして人は(というより私は)動物を飼いたいと思うんだろうか?」ということを考えていたりします。その話はまた今度。

 

blogはできるだけ定期的に更新したいと思っています。
書きたいことはたくさんあるので。

 

ではまた。